01.
一般的に言われている
「生きる意味」とは?


それでは、順を追って話をしていきましょう。

初めは、誰もが誰かに聞いたことがある疑問、


「人は何のために生きているのか」

「生きる意味とは」

という問いについて、考えて行きます。

この質問をしたとき、「答えが存在しない」、「意味がない」、あるいは、「人それぞれ違う」といった答えが返ってきたことと思います。

それが、「生きる意味」に対する世の中の一般的な考え方ですよね。


”わからなくて当たり前”


そんなものとして扱われているように感じます。


かといって、それに納得がいかなかったから、皆さんはここに来たのだと思います。


この項では、その”一般的な「生きる意味」”について考察していきましょう。


ポイントは、なぜその”一般的な「生きる意味」がおかしいと感じるのか”という点です。


例えば、”特定の人物にしか当てはまらないもの”や、”時代によって変わってしまうもの”といったものは、今私たちが求めている「生きる意味」ではないでしょう。


特定の人物にしか当てはまらないのであれば、そのほかの人たちに「生きる意味」がなくなってしまいますし、時代によって変わるのであれば、別の時代の人たちには「生きる意味」が存在しなくなってしまいます。


それと、あたりを見回すと、人それぞれに違う「生きる意味」を持っているように見えますが、それを真の「生きる意味」としてしまえば、「生きる意味」は人それぞれで決まっており、他人の「生きる意味」を見ても参考にできない、完全に独立したものになります。

そうなってしまうと、「生きる意味」は、たまたま見つけることができた一握りの人たちのものとなるでしょう。


人それぞれ違うし、手に入れようとしても手に入らないのだから、探すだけ無駄だと考えるのは妥当な判断となってしまいます。

しかし、私はそうではないと思います。


確かに、各々の「生きる意味」は別物ですが、その根底にはだれもが​同じ「生きる意味」を持っているのだと、私は踏んでいます。

子供のため、目標のため、そういった「生きる意味」の底には、同じ感覚が存在しているということです。

仮に、人類最後の一人になったとか、未開の地で一人きりで生きることになったという状況でも、その人に「生きる意味」は存在しているのです。


『「生きる意味」を無くした』と絶望する人にも、「生きる意味」は存在するのです。


あるいは、傷を負って、今にも死にそうな人から、自分の「生きる意味」とは何だったのかを聞かれてた時に、答えられるそれこそが、本当の「生きる意味」なのです。


そういった基準で考えなければ、私たちが求めている普遍的な「生きる意味」は発掘されないと私は考えています。

誰しもが、同じ「生きる意味」を携えている。

このことを基準に考察していきます。

さて、前置きが長くなりましたが、下記に一般的な「生きる意味」の具体例を挙げて、反論を交え考察していきたいと思います。

Q.「人は何のために生きているのか」

A1.子孫を残すため
  
反論:

確かに、生物として生まれたのであれば、子孫を残すことは生きる目的の一つかもしれません。
しかし一番の意味が子孫を残すためだというのであれば、社会がもっと子孫繁栄のためのシステムを取ってもいいはずです。
みんなが一丸となって、子孫繁栄のために躍起になって取り組んでもいいはずです。
ですがそうなってはいない。

また、生殖能力のない子供、老人、去勢した人、生まれつき生殖能力のない人は、「生きる意味」を持たないことになります。
子孫繁栄のための行動すべて、例えば他人を危険から守るなどの行動も子孫を残す行動だと言えるかもしれませんが、自分の身も危うい危機的状況で、子孫繁栄のための行動を全ての人がとるでしょうか。

自分の命を助けたいがために、子孫繁栄のための最適解を選ばない人は大勢いることでしょう。
また、それを語る人が、常にその目的のために適した行動をしているでしょうか。
その目的のために生きようとしているでしょうか。
自分の身を守ろうとする人は、この目的に反していないでしょうか。

人類最後の一人となり、もう子孫を残すことができない状況になったのであれば、子孫繁栄を根拠とする「生きる意味」は存在しないではないですか。
ゆえに、ただ単に、子孫繁栄のために生きようとするのは、「生きる意味」ではなく、自分がそうしたいためだけの「使命感」に過ぎないといえるでしょう。
なので、われわれの探している「生きる意味」としては不適です。

A2.子供のため

反論:

子供がいない人は生きる目的がないことになります。
ほかの子供のために生きればいいというのならば、子持ちの親が、自分以外の他の子供に、率先して何かしてあげているでしょうか。

これは、子供のことを大切に思い、子供を大切にしたいと思ったから生じた「使命感」だと考えられます。

それに子供が死んだ後でも、親は生きていくはずです。
その時の「生きる意味」はどこにあるのでしょうか。

よって不適。

A3.お金のため
  
反論:

お金は文明が発展してできたものであり、社会が存在しなくなった場合、この生きる目的は消滅します。
例えば、貨幣が存在せず、物々交換で生活を行っている場合がそれです。
「貨幣に代わる物々交換の品物がそれにあたる」という方もいるかもしれませんが、物々交換すらなくなった場合はどうなんでしょうか。

より詳しく考えると、「お金のために生きる」というのは、お金そのものというよりも、お金があることによる「物質的な豊かさ」あるいは「モノ(お金)を大量に集めた達成感(収集欲)」ということになるでしょう。
では、ものを手に入れることが「生きる意味」なのでしょうか。
豊かさ、安全を手に入れることが「生きる意味」なのでしょうか
だれもがそうしなければ生きていけないのでしょうか。

考える余地がありますが、「お金のため」というのはとりあえず不適。

A4.生きるため

反論:

これもよく聞く話ですが、「生きるために生きる」、これを他の言葉で表すと、「食べるために食べる」、「歩くために歩く」となります。
こんなの日本語すらできていません。少しは物を考えてから発言してほしいものです。
まあおそらく、これを言う人は、「死なず生き続けるために生命活動(食べる、仕事をする等)を行わなければならない。そのために生きている」ということが言いたいのでしょう。
ようは、生き続けるために今現在生活している、という考えが根底にあるのだと思われます。

目的はわかっていないけど、とりあえずやっているということですね。(生き続けることが目標になってはいるけれど、何のために生き続けるのかという目的が不在)

不適

A5.生き続けるため


反論:

前の問い(A4)と重なりますが、生き続けたいということを、別な意味で同じような言葉で表現すると、歩く目的は歩き続けるためであるとなります。
なんだか辻褄が合っていそうな言葉ですが、ではなぜこの人は、歩き続けるのでしょうか。
生物としてそうしないと死んでしまうから?
歩くことがたのしいから?
どこかを目指しているから?
歩き続けるというのは、他の目的があって、その目的を達成するための途中経過、つまり目標です。
これを言う人は、その先に何があるのかを考えていません。
気づいていないのかもしれません。

視点を変えると、死にたくないから生き続けるとも取れますが、それは後の設問A12で話をしましょう。

不適。


A6.死んだら家族(もしくはだれか)に迷惑がかかるから

反論:

これは、たしかにそうでしょう。自分の生死が誰かに影響するから死ねない。まあ、なんとも後ろ向きな理由ですが。
言い換えれば、これは家族(もしくは誰か)のために生きていることになります。
ですが、誰にも迷惑が掛からないとしたら?
迷惑がかからなくなった状況に置かれたら?

世界に自分一人だけになってしまったら?
この人は何のために生きるのでしょうか。

私たちは、なにかしなければいけないモノがあるとき、それは絶対的なものだと感じてしまいます。
しかし、それのほとんどは、捨てることが可能な束縛です。
もちろん、今の自分が置かれている環境においてそれは必須事項かもしれませんが、自分はそれを捨てることも可能なのです。
誰に迷惑がかかろうとも、自分のせいで誰かが死のうとも、本来、その束縛から離れられない道理はないでしょう。

ですが、その束縛の対象がいなくなっても、その人の人生は続きます。
ではその時の「生きる意味」は?

不適。

A7.先祖代々の血を絶やしてはいけないから


反論:

確かに、長いこと続く血統はすごい文化です。
私たちは、親がいて、そのまた親がいて、先祖がつないできた奇跡の命であることは間違いありません。

ですが、気にしなくなったらそれでおしまいのものでもあります。
ようは、この価値観は、我々の文化によって貴重とされているにすぎません。
自然界の動物が、人の血統で襲わないくなったりするでしょうか。
野生のライオンが、「この人は高貴な血筋だから襲わないでおこう」などとするでしょうか。

その血統によってなせることもあるかもしれませんが、それができなくなったとき、その血をつなぐ必要はあるのでしょうか。
これまで、そのような血がどれほど途絶えてきたでしょうか。

仏教でも同様のことを解いていますが、その通り、本来血統を気にする必要などないのです。
それは使命感にすぎません。

不適。

A8.生きていることは楽しいから

反論:個人的には、この答えが一番嫌いです。僻みととってもらって構いません。
そもそも、生きることが楽しいと思っている人は、生きる意味を探し求めたりしませんね。
いろんなことがうまくいっていないから探し始めるんでしょうね。
ですがこういう人に限って、何か人生で辛いことがあった時にひどく被害者ぶるんです。
こういうことを言っている人に、死ぬまで拷問をかけても、同じことが言えるのか試してみたいものです。

拷問で死ぬ直前も、「わたしは楽しいから今この瞬間も生きている」といえるのでしょうか。(それはそれで心が壊れてる気がしますが。)
確かに、世界には楽しいことはたくさんあります。
それは間違いありません。
しかし、辛いことも、残酷なこともたくさんあります。
拷問に会い、今にも死のうとしている人に、「人生とは、楽しいから生きるのなんだよ」といえるのならやってみてもらいたいものです。

不適。

A9.全てがうまくいっているから

反論:

単純な話、うまくいかなかった時点で死ねるのかという疑問が残ります。

たしかに、「事業が失敗したから、人生終わらせるか」と、あっさり死ぬ人もいるでしょう。
しかし、これもまた特定の人にしか当てはまらないもので、多くの場合はうまくいかないことに苦しみながらも生き続けます。

「すべてがうまくいっているから、楽しいから生きている」という風にもいえるかもしれません。
A8と同じようなことですね。

不適。


A10.世界は喜びに満ちているから

反論:

宗教的な言い回しに感じますね。

世界は残酷で満ちていることも思い知らせてあげましょう。

残酷なことを、この人たちはどうとらえているのでしょうか。

不適。

A11.人は幸せになるために生まれてきた

反論:

残念ですが、人が幸せになることは確定されていないでしょう。
生まれてから、辛いことばかりで、失意の中で死ぬ人だっています。

この言葉は優しさを含む反面、あまりにも無責任すぎます。
生きることに希望を持たせたかっただけかもしれませんが。

不適。

A12.死ねないから、死ぬのが怖いから
 
反論:

であれば、人類は死ぬことをもっと研究しなければなりませんね。
目的に向かって行動しましょう。
安楽死をみんなで研究すれば、みんな幸せです。
死んでいいよ!といえる社会にしないのはなぜですか?
なぜ、みんなで目標に向かって頑張らないのですか?

正しいように見えて、やはりこれも間違った理論なのだと思います。


どんなに現状がつらくても、やはり死ぬということは、不安で、怖くて、精神的にも肉体的にも辛いもの。
それゆえ、今は辛いけど、死ぬのはもっとつらいから、それを避けたい、そのためだけに生きているというふうにもとれます。

ですが、本当にそうでしょうか。

あなたは常に、「死ぬことから逃れるため」それだけに生きてきたのでしょうか。
おいしいものを食べたいと思ったことは?
何かを成し遂げたいと思ったことは?
楽しい、嬉しいとおもったことは?

これまでの良い出来事のためだけに生きることと同様、この悪い出来事が前提の「生きる意味」もまた、極論であると言わざるを得ないでしょう。

なぜなら、そうではない原動力で生きてきたこともあるからです。

正しさも、誤りも含んでいるといえます。

なので不適。


A13.生きるしかないから


反論:

私の親がよくこれを言っていた気がします。

「産まれてきてしまった以上、死ねないから。生きるしかないから。」

なんと後ろ向きな目的なんでしょうか。

たしかに、生を受けた以上、死ぬまでは生き続けなければなりません。
しかし、別に生きるしかないわけではないはずです。
死ぬ選択もあるけれど、それをしない、あるいはしたくないから生きているはずです。
言い換えれば、死ぬ努力すらしていないということにもなります。

決して、私たちには生き続ける選択肢しかないのではありません。

不適。

A14.生きる事はありがたいことだから


反論:

その理由で、辛いことに本当に耐えられるんでしょうか。
確かに生きることは、その字面の通り、有難いこと、奇跡です。
こんなことを言う人は、一度拷問にかけてみましょう。
その苦痛の中でも「死にたい」ではなく、「生きることはありがたいから、拷問を受けたままでもいいから生きさせてくれ」というのであれば、そのまま死ぬまで辛さを味わっていてもらいましょう。
だって、そのために生きているんでしょう?

正しい側面もありますが、やはりこれだけでは不適です。


さて、以上のように一般的に言われている「生きる意味」は、いずれも合っているようで合っていない、もしくは言ってることがおかしいものばかり。


どうも決め手に欠けている感じがしますよね。


「それ(各々が言っている生きる理由)のために、私は頑張れない…」と言った方がよいでしょうか。


「生きる意味などない」と言われている理由がわかる気がします。


なぜなら、”どの答えも矛盾が多いから”です。

人それぞれ言ってることは違うし、自分も答えが分からない=生きている意味など存在していないとなるわけです。


これだけあやふやなものなのに、なぜみんなそれを信じられるのでしょうか。
それこそが、「生きる意味は必要ない」といわれる所以だと思われます。

さて、周りの言っていることがあてにならないことが分かったところで、
以上のことをこのように大別してみます。


①生きることは義務である
A5 A6 (A13)

(A5.生き続けるため

 A6.死んだら家族(もしくはだれか)に

  迷惑がかかるから

 A13.生きるしかないから)


②生きることは素晴らしいことだ
A8 A9 A10 A11 A14

(A8.生きていることは楽しいから

 A9.全てがうまくいっているから

 A10.世界は喜びに満ちているから

 A11.人は幸せになるために生まれてきた。

A14.生きる事はありがたいことだから)


③生きなければいけない使命がある
A1 A2 A7

(A1.子孫を残すため

 A2.子供のため

 A7.先祖代々の血を絶やしては

  いけないから)


④生きていたいと思う理由がある
(A2) A3

(A2.子供のため

 A3.お金のため)


⑤生きる意味なんて存在しない、生きることは辛いことだ
A4 (A6) A12 A13

(A4.生きるため

 A6.死んだら家族(もしくはだれか)に

  迷惑がかかるから

 A12.死ねないから、死ぬのが怖いから

​ A13.生きるしかないから)


人それぞれが、バラバラなことを言っているように見えますが、ある程度大別できますね。


さて、この項目についてまとめると、



〇自分の周りの人たちが言っている「生きる意味」には、おかしな点がある。

〇それらの「生きる意味」を大別すると、取り合えず5種類ほどに分けられる。



という話でした。


では、次からより詳しく考察していきましょう。

 

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