03.「死にたい」と思うことは間違いか
最初の項01で、世間一般で言われている「生きる意味」について目を通し、
前項02で、「生きる意味」を探そうとする背景には3つの種類があるという話をしました。
最初に見た一般的な「生きる意味」の中のいくつかは、"死んではいけない"ことを前提に話をしているものがありました。
例えば、01の項で大別した、①と⑤のことを考えると、
「生きることは辛くて意味のないことだが、どんなに辛くても生き続けることが義務である」
という解釈ができます。
「意味もないし辛いことをやり続けなくてはいけない」
という意味が分かりませんけどね。
まぁそういうことを言う人がいるわけです。
ですが、辛い目に合えば、時にはすべてを投げ出して死にたくなることもあります。
それは生きものとして当たり前の反応でしょう。
なのになぜ死んではいけないのでしょうか。
この項目では、そんな”死にたい気持ち”を扱っていきます。
一般的に、「死にたいとなんか言ってはいけない」「生きようとしなさい」「がんばりなさい」と言われることが多々あると思います。
しかし、「生きる意味」を持たない人たち、「生まれてきてしまったから仕方なく生きているようなものだ。人生なんてそんなものだ」というような人たちが、「生き続けなければだめだ」というのは、おかしい話ではないでしょうか。
それではまるで、「お前も辛い世界で辛い思いをし続けなさい」と、そんな世界に縛り付ける、地獄への道連れではないですか。
「私もつらい思いをして生きているのだから、あなたも死んで楽になろうとしてはいけない」
場合によってはそう言っているように聞こえますよね。
なんとなく、日本人らしい考え方のような気がしますね。(自分が辛いのだからお前も辛い思いをしろという点で)
辛い世界への道連れは、とても不毛な行いです。
あえて辛い思いをしながら、辛いまま生き続けるための努力をするなんて、おかしいと思いませんか。
もしかして、辛さを味わうことが、生きる目的なのでしょうか。
それが私たちが生まれてきた意味なのでしょうか。
少なくとも、率先して辛さを味わうために、あるいは辛さを味わうためだけに生きているのではないでしょう。
そのようなことを考えると、むしろ、
「生きるのは辛いことだから、死ぬ努力をしよう!」
と言う方が、まだ話は分かります。
”嫌なことを改善する”という点で、実に論理的ではないですか。
さて。
なぜ、こんなに辛くても生きようとするのでしょうか。
今一度考えてみましょう。
”生きるのは辛い”
確かに、これは事実です。
生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦。
生きているだけで、何かをしようとするだけで、人はエネルギーを使うし、何かしらの苦痛を受けています。
そんな世界にいるのだから、辛いことから離れたい、もう辞めたいと、何かのきっかけで思ってしまうのは当然の気持ちで、かつ合理的な判断ではないでしょうか。
”人は生まれた後、必ず死ぬ”
これはもまた、避けようのない事実です。
であれば、最終的に必ず死ぬというのに、死にたくなること、死のうとすることというのは、本当にそんなに悪いことなのでしょうか。
もう一度聞きます。
死ぬことは、本当に悪いことですか?
”生き続けなければならない”
これは果たして、確固たる事実ですか?
少し視点を変えましょう。
死ぬことが悪いことであれば、生きることは良いことでしょうか?
生きることがあたかも”必ず良いこと”であるというような風潮が存在しますが、それもまた間違いだと私は思います。
生きることが良いことという言葉には、
「生きることそのものが義務で、その義務を達成することは良いことだ」
「生きていれば、なにかしら良いことがある。良いことと悪いことは足し引き0、あるいはプラスが多い」
の二通りの解釈があると思いますが、このどちらも私は間違いだと思います。
考えてもみてください。
例えば、13歳ぐらいの少年が、容姿に恵まれず、金もなく、家庭環境が悪く、学校でもうまくいってなかったとしましょう。
毎日空腹と暴力に耐える日々。
この13年間、特に良いこともなく、苦しみに耐えて、なんとなく生きてきた。
この先もこんなことが続くのだろうと完全に失意に飲まれたまま、ある日急に事故で亡くなったとしましょう。
辛い辛いと思いながら過ごしていたら、ある日急にその意識が途切れたのです。
彼は、辛いことに見合うだけの良いことがあったのでしょうか。
気が付かなかっただけで、良いこともあっただろうなんて解釈はいりません。
彼は、日々の苦痛の中で、ただただ痛みに耐えながら生きるだけだった。
「生きていれば必ず良くなる」というのがどれほど身勝手な言葉か、考えたことはあるでしょうか。
それは、長い人生の中で、一度ぐらいは楽しいと思うことはあるだろうという、無責任な言葉です。
本当に、良くなるばかりですか?
その一度だけの楽しいことで、他がチャラになるのですか?
であれば、私は今すぐ、そんなことを言う人の大事なもの全てを壊して殺したい。
それでもそのような言葉を吐き続けるのならば、その言葉を信じます。
悪いことが起こったら良いことが起こるということは確定していません。
悪いことばかりが起こり、死ぬことだってままあります。
悪いことの先に、良いことが待っててほしいというのは人の願望に他なりません。
生きているうちに良いことがある。だから生きなさい。
「生きなさい」という言葉の裏には、そのような心理が働いているのだと思います。
しかし、そんなことを口で言う癖に、それ以上の助けをしてくれないことがほとんどです。
なんと無責任な話でしょうか。
辛い世界の中にいたからこそ、死にたいと思うのに、死ぬことを止められ、しかし辛い世界から引き出してはくれない。
そうすると、「生きなさい」というその言葉だけでは、辛い世界で苦しみ続けさせるだけになってしまうのです。
その人を生き続けさせて得をするのは、誰なんでしょうね。
話を戻して、以上のことを踏まえ「死ぬことは悪いことか」という問題を考えてみましょう。
病や、怪我などで今にも死にそうな人は、死ぬことが救いになることがあります。
拷問にあって苦しむ人は、それ以上拷問を受けることなく死ぬことが救いです。
”死ぬことが救いとなること”もまた事実であると認めなければなりません。
死んでも、良いのです。
苦しんでいるときに助けが来るケースもあるだろうと考えるかもしれませんが、同様に助けに来ないケースも間違いなくあります。
ましてや、奇跡的に助かったという表現があるのだから、多くの場合は助かっていないのです。
助けが来る、そのうち楽になる。
それはあまりにも世界に対する考えが楽観的過ぎます。
人間の残虐性に目を向けるべきです。
凶悪犯罪をもっと具体的に知るべきです。
あなたは、殺人の詳しい状況を、どのようにして人が嬲り殺されるのかを明確に考えたことがありますか?
人は、人が想像する以上にむごいことをします。
平和が珍しいことであって、その裏には危険が常に潜んでいることを忘れてはいけません。
また、人間以外の他の生物ですら、鬱で自ら死を選ぶことがあるといいます。
であれば、人が自殺することがおかしいと、なぜ言えるのでしょうか。
苦しみ、死ぬことを望む生き物を、無理やり生きさせる。
そのような義務とは果たしてなんでしょうか。
その義務は、だれが作ったものですか?
「義務」というからには、”そうしなければならない前提”と、前提を定義した人物がいるはずです。
義務とは、人が作り出した概念に他なりません。
だれが、そんなことを決めているのですか?
私たちは、その定義をした人のためだけに生きているのですか?
「生きることは辛くて意味のないことだが、どんなに辛くても生き続けることが義務である」
この項目の最初に、この言葉を取り上げました。
この言葉は、
「死ぬことは悪いことであり、生きるという義務を達成することが良いことだ」
という前提がありました。
ですが今、多少説明を省いた部分はありますが、死ぬことは絶対的に悪いことではなく、そして生きることは義務だと命令する絶対的な人物はこの世界にいないことが分かりました。
「死ぬことは悪いことであり、生きるという義務を達成することが良いことだ」
という、間違いないように聞こえる言葉は、前提によって変化してしまう言葉だったことが分かりました。
つまり、この言葉を守るか守らないかは、あなた次第なのです。
死ぬことに負い目を感じる必要はないのです。
私がここで言いたかったのは、
「生き続けなければいけない義務など存在していない。死んでもよい」
ということです。
そのような事実があるから、「生きることは辛いことだが、どんなにつらくても生き続けることが義務である」という前提を持つ、一般的な「生きる意味」①と⑤に違和感を覚えるのでしょう。
そして、この前提が崩れた以上、①と⑤は、本当の「生きる意味」とは言えないでしょう。
「生きる意味」とは、そのような曖昧なものではないはずだからです。
②,③,④は生きることに前向きな理由を前提に置いていましたが、この項で話した通り、良いことが起こらず、辛いことばかりが起こるとき、その人は何のために生きるのかを考えると、前提が崩れてしまっているため、少し大雑把な判断にはなりますが、これもやはり本当の「生きる意味」とは言えないでしょう。
ただ、死ぬことが良い選択だとは言いません。
死んでも良いというのと、死ぬことが良いことだというのは別な話です。
この項目についてまとめると、
〇死にたいと思うことは間違いではない。
〇生き続けなければならない義務など、人や社会の都合の話
〇かといって安易に死んではいけない訳がある
という話でした。
さて、死ぬことのメリットのような話ばかりしてきましたので、
次の項では、そうはいっても「簡単に死んではならない」ことについて、話をしましょう。