04.
「死んではいけない理由」
は本当にあるか
03の項目では、死にたいと思うことは間違いではないということをお話ししました。
しかし、それはあくまで、
「死ぬことを選択するというのは、否定されるようなことではない」
ということであって、死ぬことを推奨したわけではありません。
「それって、死んでもいいとは言ったけど、結局生きろということか?」
というと、それは少し違います。
「生きなきゃいけない」とか、「無理して生きろ」ということではなく、
「死ぬことと生きることを常識にとらわれずじっくり考えて、その上で選択した方がいい」ということが言いたいのです。
死んではいけない、生きなきゃいけないという時、”自分の辛さ”というのを見過ごしてしまっているのです。
そういった圧力から解放されて、自分の辛さと、それを打破する方法をじっくりと見据え、”自分の意思”として、生きること、死ぬことを選択すること。
そのためには、死ぬことを否定してはいけないと、私は思います。
この項目では、そんな”死んでもいいけど死んではいけない”という、少し矛盾した話について考えていきます。
今目の前に、死のうとしている人がいたら、どのような言葉をかけるでしょうか。
「死んではいけないよ」
「早まってはいけないよ」
多くの人たちがそのように声をかけるでしょう。
なぜなら、その人が誰であろうと、「死ぬことは悪いこと」なのだから、是が非でも止めたいのです。
そして、なぜ死んではいけないのかと聞くと、
「誰かが悲しむよ」
「あなたには、やることがあったんじゃないのか」
「せっかく生まれてきたのにもったいないよ」
そのような言葉が続くでしょう。
「私はそんなことのために生きているんじゃない!」
そう叫びたくなる人もいるのではないでしょうか。
その通りだと思います。
あなたは誰かが悲しむから仕方なく生きているわけでも、
やらなきゃいけないことのために生かされているのでも、
もったいないから、生きているのでもないのだと思います。
かといって、何のために生きているのかわからないという板挟みになっている状態だと思います。
「死んでもいい」と前項でいったことで、なおさら、「なぜ死んではいけないのか」と思っているかもしれません。
今回は、まず私の意見を先に言わせてもらおうと思います。
私がなぜ、「死んではいけない」というのかというと、
1、今の自分でいられることは、この人生限り(前世も来世もありはしない)
2、今辛いと思っていることを解決できる方法が存在する可能性がある
3、今この世界でしか味わえない楽しみというものが存在している
という3点からです。
「そんなの、一般論を言い換えただけじゃないか!」
なんて感じる方もいると思います。
たしかにその通りで、この3つを言い換えれば、
1は「死ぬなんてもったいない」、
2は「生きていれば何とかなる」、
3は、「生きてれば楽しいことがある」
なんて言葉に言い換えられるでしょう。
ですが、そうではないのです。
まず、言い換えた言葉とは、論点が少し違います。
少しの違いですが、大きく違います。
そしてこの3点、どれか一つでも欠けてはいけません。
論点の違いについてですが、
1では、もったいないから死ぬなと言っているのではなく、今の自分の希少性を認識しているかという確認です。
2では、何とかなるから諦めるなと言っているのではなく、今の状況から改善できる可能性の確認です
3では、生きていればそのうち楽しいことがあると言っているのではなく、生きていることで出会える楽しみや特典の確認です。
つまり、
”何かと理由をつけて死ぬなと禁止している”のではなくて、
”死ぬ前に大事なことは確認したか?という再確認のための制止”です。
ニュアンスとしては、例を挙げると、旅行やイベントに来たにもかかわらず、外出しようとしない人に話している感じです。
もう二度と来られないけど本当にいいのか。
外に出るのに何か不安なことがあるなら対処できるけど、本当にいいのか。
今回はこんな楽しみが用意されているけど、本当にいいのか。
そういっているような感じです。
人は時に、モノを知らないせいでタイミングを逃してしまうことが多々あります。
「知っていればそんなことしなかったのに」
そんなことにならないために、死ぬ前に生きることについてもう一度確認しましょう。
世界は辛くて些細なことで死にたくなるけど、今一度確認しましょう。
そういうことを言っているのです。
このように、
「もう次のチャンスはないのだから、もう一度考えてから死になさい」
というのが、私のスタンスです。
それでもなお辛いというのであれば、死ぬことも全然ありだと私は思うのです。
「ここまでいってもわからないなら、勝手に死ねばいいじゃない」
という人がいますが、そうではなく、
「そんなにつらい思いをしてきたのは大変だったのだろうな。せめて、死んで楽になってほしい」
と、私は思います。
もしかしたら社会から許されるような価値観ではないのかもしれませんが、そう思います。
だって、死ぬのは悪いことではないのですから。
もう少し、死ぬのを辞める理由を書かせてもらいます。
仏教に、盲亀浮木という言葉があります。
雑阿含経という経典に出てくる言葉なのですが、
仏陀の言葉の一つで、海中の海亀が浮上して、水面に浮かぶ木の板にあたる確率はどれくらいだと思うか。
という内容です。
仏陀はこの言葉で、人が生まれてくるのは、それほどに起こり難いことなのだと説いています。
起こり難い=有り難いことですが、私はそれに感謝しなさいということではないと考えています。
私は、仏陀はとてもリアリストだと考えていて、この盲亀浮木という言葉から、
「生まれるなんてありがたい事なんだから感謝して生き続けろよ」ということではなく、
ただ単に、
「今の自分に生まれるのは、起こり難いことだぞ」
という事実を説明しているだけなのだと思います。
そのことを踏まえて、自分がどうするかは考えなさい、早まった行動や、愚かなことはしていけない。
ただそれだけを伝えているのだと思います。
私も、死にたくて死にたくて、自殺を試みたことがある人の一人です。
死ねないことに泣いた日もありました。
生きようと思って歩みだしたときに、「本当にあのつらい現実に戻るつもりなのか。なぜそんなことをするのか」と自問したのを鮮明に覚えています。
少し当時の話をしますと、週に一回ほど、「早く死ななくては」と異常なまでの焦りを感じて動けなくなる日がありました。
そんな時ふと、「今まで死ぬことは悪いこと、死んではいけないものと思っていたけど、死ぬことは本当に悪いことか?死んでも別によくないか?」と思った瞬間、「死ぬのは今じゃなくてもいいな。次死にたくなったら死ねばいいか」と、吹っ切れた瞬間がありました。
私の中では、「死にたいほど辛いのに、死ぬことも許されない」ということが辛かったのだと思います。
まさに、生きるも地獄、死ぬも地獄といった八方塞がりの心境だったのでしょう。(自分では気づいていませんでしたが)
そんな中、自分の中で死ぬことへの壁を壊せたことで、逃げ道ができて、前に進む準備が整ったのだと思います。
私の”死ぬことからの復活の第一歩”は、そこでした。
ということで、私の体験談は参考程度に書くこととして、
死ぬのを辞めたところで、では、生きていたいかといわれると、「うん」とは言えないのが現実だと思います。
辛いから死のうとしていたのだから、ただ死ぬのを辞めただけでは、結局は今まで通り辛い現実と顔を合わせるだけです。
心がすり減って、いつかまた折れてしまうことでしょう。(何かのきっかけで好転すれば別ですが)
死ぬことを辞めさせたとしても、生きることを助けなければ、その人は本当には救われていないのです。
このページの冒頭でお話しした、
”死んでもいいけど死んではいけない”
とは、
”社会のどうでもよい価値観なんか気にせず死んでもいいけど、
あらゆる可能性や事実を知ったうえで判断していないのならば死んではいけない”
ということです。
それらを踏まえても死にたいほどの状況にあるのならば、死ぬことを止めてはならないのだと私は思います。
この項目についてまとめると、
〇死ぬのは悪いことではないけれども、簡単に死ぬことを選んではいけない
〇死んではいけない理由は、次の3つの理由から
1、今の自分でいられることは、この人生限り(前世も来世もありはしない)
2、今辛いと思っていることを解決できる方法が存在する可能性がある
3、今この世界でしか味わえない楽しみというものが存在している
〇3つの理由は、どれか1つでも欠けてはいけない
という話でした。
ちなみにですが、なぜ「生きる意味」について考察するよりも前に、「死ぬこと」について考察したのかというと、そうしなければ”生きようとして「生きる意味」を探せない”と思ったからです。
「死にたいけれど、死ぬことは許されない。仕方ないから生きる意味を探そう」としているうちは、どれだけ「生きる意味」を探しても、あるいは、よほど運命的な「生きる意味」に出会わない限り、
「死にたい」という思いをはねのけることはできないでしょう。
不思議なもので、自分の気持ちを押さえつけて頑張ろうとしても、結局は押さえつけていた最初の気持ちに戻ってきてしまうものです。
それは、「死にたい」という気持ちについても同様です。
本当に不思議ですね。
「自分には死ぬという選択肢がある。それでも生きる方向に舵を取ってみたい」
という気持ちが、「生きる意味」を見つけるきっかけになると私は思います。
だから初めに「死にたい気持ち」と向き合う必要があったんですね。
次の項では、いよいよ、普遍的な「生きる意味」について、掘り下げていきたいと思います。