06.
「生きる意味」その2
人間としての目的

生きているだけで、生物としての役割は果たしている――。


誰にでも備わっている「生きる意味」は存在していた。



前項で話した「生物としての生きる意味」について、皆さんいろいろと突っ込みたいところはあるかと思います。


ですが、とりあえずは、全ての人に共通する「生きる意味」が見つかったことにして話を進めます。




探していた答えは一応見つかったはず。


見つかったはずなのに、それだけでは納得できない。

まずは、なぜ納得できないのかを考えてみましょう。



納得できない理由。

単刀直入に言えば、”それのために生きたくないから”でしょう。



あなたは、「生きる意味」を探していました。


それは、世の中にある「生きる意味」が矛盾だらけで、納得できなかったからでしょう。


そして、なぜ「生きる意味」を探したかというと、自分の中に「生きるための活力」を見出したかったからではないでしょうか。


辛いこと、理不尽なこと、無意味感、そういったことを覆すための理由が必要だったのではないでしょうか。


あなたは、「生きる意味」に、自分が納得できること、共感できるものを求めていたのです。


だから、『「生きる意味」とは、生きているだけで達成されているのだ』と言われても、納得できないのだと思います。


納得できないから、それのために生きたくないのです。




すなわち、私たちが本当に求めていた「生きる意味」とは、『生き甲斐』のことだったといえるでしょう。


これは、これまで「死ぬこと」「生物としての生きる意味」を明らかにしたからこそ、浮き彫りになっています。

それらを明らかにしなければ、何度も同じ場所を堂々巡りしてしまう疑問なのです。



ですが、ここからはだいぶ単純に話を進められます。


最後の「生きる意味」を探す背景、


C 何のために生きたらいいかを探すとき
  =生きる活力を探すとき


についての答え。



「ヒトとしての生きる意味」とは、

「自分が何のために生きたいと思うのか」

ということに収束します。



自分が納得できる、この世界に生き続ける理由。


それは各々にしか決めることができず、人特有のモノだと考えられます。



ですがきっと、人間とはそのような生き物なのだと思います。


人間だから、ただ生きているだけでは納得できないのです。

私たちは、自分の人生に、自分の納得できる理由が欲しいのだと思います。




私は子供のために生きている。
私は仕事のために生きている。
私は家族のために生きている。
私は社会のために生きている。


こういった”使命感”、あるいは”自分はこれのために生きていきたい”と定義したものが、「一般的な生きる意味」です。


”人の意思”が含まれるものです。



これを、


「ヒトとしての生きる意味」

と呼称することにします。




これまで散々、一般的な「生きる意味」を否定してきました。

実際、これまでの視点であれば、否定せざるをえませんでした。

あなたの生きる意味とは、家族のために生きることだ。

あなたの生きる意味とは、社会に貢献することだ。


あなたの生きる意味とは、だれにも迷惑かけずに生きることだ。



そういう言い方をするならば、それは社会的側面から見た、「生きる意味」なのです。


あなたがそれを、「生きる意味」だと決めたときに、それはようやく、あなたの「生きる意味」となります。



すなわち、「ヒトとしての生きる意味」とは、

”自分が生きているこの世界で、自分が決めた、成し遂げたいこと”

といいかえられます。



この「ヒトとしての生きる意味」こそが、多くの人が本当に求めていた「生きる意味」だと、私は考えています。



人それぞれが自分が決めるのですから、それは人の数だけ存在します。


人によって違うのだから、他人の生きる意味を当てはめても、うまくいかないことがあります。



この「生きる意味」は、自分のしたいこと、自分の意思や好みに一致していることが求められています。


自分が満足できることがしたいのです。



人の意思、好みというのは、人によって千差万別です。


「生きる意味」が、人の意思や好みに紐付けられているならば、「生きる意味」も千差万別でしょう。


だから、ここだけを切り取って、


「「生きる意味」は人によって違う」


といわれるのでしょう。



そして、なぜ、当たり前の意味付けに満足できないかというと、その人に”それ以上のことをすることが可能だから”、つまり、その人には”実行する能力があるから”でしょう。


求められている以上のことができる、今以上に能力を発揮できるとき、人はさらに高みを目指したくなる性質があるのだと思います。


「衣食住を整え、生きることに不便させない代わり、毎日、何の意味もなく畳の目を数えて一生を過ごせ。それ以外のことはしていけないし、遊ぶことも許されない」と言われたら、耐えられないと思います。


それは、他にやれる能力、遊ぶこと等も含めて、できる能力があるのに、発揮できないことへの不満からくるものではないでしょうか。


だから、ただ生きていればいいというのではなく、人に喜怒哀楽の感情があり、様々なことを発展させる頭脳と技術がある以上、それを求めてしまうのです。


感情も、能力も人によって違いうから、発生する意思や好みも違います。

なので「生きる意味」は人によって違うのです。

以上のことをまとめると、



人は能力があると、今以上のものを望む。

人によって能力は違うので、望む意思も、好みも変わってくる。

人の意思や好みと「生きる意味」は密接な関係にある。

人の意思や好みが違う以上、人としての「生きる意味」も人の数だけ存在する。



ということになります。




例を挙げてみましょう。


例えば、食事をするとき。


あなたが食事をしたい理由は何ですか。


おいしいものが食べたい、空腹を紛らわせたい、だれかと楽しい時間を過ごしたい。


その時と場合や、その人によって目的は大きく変わります。


しかし、よくよく考えてみると、食事とは、生きるための栄養摂取に他なりません。


本来の目的は、生存のための栄養摂取ただ一つです。


だからあなたは、栄養摂取のためだけを考えて、食事をすればいいのです。

ですが、目的は達しているのに、自分の気持ちがそれに合っていないと「納得」できませんよね。


おいしいものが食べたいし、おなか一杯食べたいし、楽しく食べたい。


​​味の好みも、食べたい理由も、その人の体のつくりで変わってきます。


あなたは、そういったあなたの中の、なんらかの「食べたい」という気持ちから、食べているんです。


あなたはおいしいものを味わう能力を持っている。


だから、まずいものよりもおいしいものが食べたい。


おいしいものを食べることが、食事をしたい理由ですね。

またある人は、おなかがすいている。
おなかがすいているからおなか一杯食べたい。


そうなれば、おなかいっぱい食べることが、食事をしたい理由ですね。





さて、少し話の角度を変えて、次は「生きる意味」の原動力について考えてみましょう。

「生きる意味」の根底にある原動力とは、その人の、”したい”と思う意志の力であるといえるでしょう。


この原動力は感覚と感情によって見つかると思われます。


理屈ではなかなか見つけられないでしょう。

そういった意味で非常に厄介な相手ではあります。


見つけるためには、この世界にあるものや事象に直接触れ合い、体験するしかありません。


”~したい”という気持ちは感情です。


感情は、思考で理解することは難しいです。(本当に無理かはここはまだ考察不足ですが)


自分の感情に注目して、様々な経験をして、その中から、これのために生きてみたいと思うものを探し出す必要があります。


頭で考えて見つかるものではないと思います。


あまり好きな表現ではありませんが、直感によって見つかるものだと思います。


「ヒトとしての生きる意味」は後天的であるがゆえに、見つからないこともあるでしょう。


感情に目を向けるのが苦手で、なかなか決められないものがある人もいるでしょう。

ですが、それでいいのだと思います。

「ヒトとしての生きる意味」とは、必ずしも必要ではないからです。


それがなくとも、あなたは、「生物として生まれてきた意味」をこなしたのです。


それ以上のことは、あくまで人間の価値観の中でのことにすぎません。


それは個人で見れば生きている間にしか役に立たないもの、種族で見れば人間が存在しているときにしか役に立たないものです。


人生のスパイスといってもいいかもしれません。


最後に、「ヒトとしての生きる意味」には、種類分けができるので、そのことについても語っておきましょう。


01の項で一般的な「生きる意味」がたくさん出てきましたが、今一度分類すると、このように分けられます。


・使命感によるもの
 子供のため、血筋のため、仕事のため、宗教的な教義のため 等
 苦しまなければならないと考えているならば、それも使命感といえるでしょう。


・快感のため
 楽しいことがある、熱中していることがある、お金を稼ぐ 等
 子供を育てるのが楽しければ、子供もこちらに入るでしょう


・苦痛から逃げるため
 死にたくないから、苦痛のない生活をしたいから


もっと例が増えれば、さらに種類わけもできると思いますが、とりあえずはこのあたりで。


これらに共通しているのは、したいと思ってやっている点です。

しなければならないというのも、結局は自分がやろうという気持ちがあるからなので、まとめてしまっています。


そして、これらは達成できないこともあるという点でも共通しています。


だから、達成できなかった時に、自分の生まれてきた意味は何だったのかという疑問が沸く訳ですね。


04-Ⅰのヒトのことを考えれば、本当にやらなければならないことなど、ないのだと思います。


周りに人がいるから、社会があるからやらなければならないことがたくさんあるだけで、本来生きる上では、ほとんどのことが必要ないのです。



「じゃあ、人としての生きる意味だけあればよかったのではないか」


そう考える人も多いかと思います。


つまり、01~03の項目は不要だったのではないかと。


ですが、「人としての生きる意味」とは、あくまで後天的なものです。


そして、それが見つかるまでは、形を成していません。


また、自分の「生きる意味」を見つけたとしても、挫折したり、無くしてしてしまうことがあります。


そんな時に出てくる疑問が、Bであり、Cなのです。


そしてそれらをまとめて、「生きる意味」とは何なのだろうと考えてしまいます。


だから、これらは全て同時に考えなければならないことなのです。






あなたが、何のために生まれてきたのかと聞くのならば、


「生き物のとしての生きる意味とは、生きることそのもののことで、産まれて、生きて、死ぬ、そうすることが世界の役に立っている」
というのが答えになるでしょう。



それ以上の、生まれたときに誰かからすでに与えられた使命というのは、人が作り出したものにすぎません。


あなたが、自分に価値があるとは思えないというのであれば、それは、人の社会によって生み出された価値観によって、苦しめられているに他ならないのです。


人の社会において、有益である、何かを成し遂げるということは重要ですが、人の社会を超えた世界から見れば、そんなことは必要ないのです。





話せば長くなってしまうので、必要そうなところだけをかいつまんだつもりですが、少し駆け足だったかと思います。


より詳しく考察を見たい方は、補足ページに飛んでください。



実は、「生きているだけで生き物としての役割を果たしている」というのは、実際とても残酷な真実だと思います。


そこには、生きる保証も、幸せである保証も含まれていないからです。


生きているだけでよいので、どれだけ残酷な死に方をしようと、どれだけ惨めな一生を送ろうとかまわないということです。


実際、自然界を見てみれば、生きたまま他の生き物に食べられ死ぬことが当たり前です。


どれほどの苦痛がそこにあるかはわかりしれません。


この理屈でいけば、死ぬまで何かに悩み続けても、不幸な状況を受け入れ続けることも、認められてしまうのです。


その現実に対抗するためには、「ヒトとしての生きる意味」と、「社会が作り出した安全機構」をうまく使うことだと思います。


社会の中にいても多くの危険はありますが、安定供給される食糧、住居、保証、ルールといった、自然界では獲得できえないものがたくさんあります。


これらは人の作り上げてきた社会の恩恵です。


うまく使うに越したことはないでしょう。


誤解を招くかもしれませんが、社会をうまく使うという点では、良い悪人を目指すのがよいでしょう。




私は、せめて、皆さんが「生きる意味」という言葉に惑わされることなく、失意の中で生き続けることなく、自分に納得して生きられるように、自分の意思で自分の生き方を選んで生きられることを願い、ここに書き残しました。


この答えが、誰かひとりにでも、希望になることを祈っています。




さて、この項目についてまとめると、



〇「ヒトとしての生きる意味」とは、「生き甲斐」のことである。
 =自分が生きているこの世界で、自分が決めた、成し遂げたいこと


〇「ヒトとしての生きる意味」は、人によって違う


〇「ヒトとしての生きる意味」は、”~したい”という気持ちによって見つかる。
 これは理屈では見つけることが困難。


〇「一般的な生きる意味」は、参考にする分にはよい。
 あとは、体験してそれが自分に合うのかを確かめる。


〇A,Bの話がなければ、Cの話は行き詰ってしまう。

 


という話でした。






では次の項で、全体のまとめをしましょう。

 

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